わたしには、腐れ縁の男がいる。
友情と言うのにはこっぱずかしいような感じだし、もちろん恋愛関係にあったこともないのでこう呼ぶしかない。中学1年のときに出会って、もうすぐ12年の付き合いになる。(わたしはいつの間にそんな歳になったんだろうか、、)
一昨年の秋、そんな彼とニューヨークで3年ぶりくらいに再会した。
わたしはカナダでのワーホリの終わりにニューヨークを旅行したいと思っていて、彼は世界一周のバックパッカーの最中でアメリカに行こうとしていた。お互いタイミングがよかったので、同時期に滞在することになったのだ。
といっても、誰かと旅行するのが苦手なわたしには彼と一緒に観光する気はさらさらなく、同じ宿だけ押さえてもらって夜だけ一緒に飲むかどうかくらいのつもりでいた。
AirBnBで取ったニュージャージーのボロいシェアハウスの扉を開けると、彼はベッドの上から「あー」と唸り声だけで迎えてくれた。数年間離れていたはずなのに、毎日一緒に住んでいるかのような日常っぽさになんか笑ってしまった。
「べつに一緒にまわったりしないよね?」とわたしが一応訊くと、「え、一緒でいいじゃんせっかくだし」と奴は普通に答えた。へ?まったく計画とか擦り合わせてないのに一緒にまわるの?てかデートかよ。
と、思ったけど、正直ニューヨークもニュージャージーも一人では少し怖かったし、旅慣れている彼に任せたほうがいろいろと楽そうだったから結局三日三晩一緒にいた。あ、同じベッドで寝たりとかいう意味ではないです。笑
その3日の間は、自由の女神とかウォール街とかタイムズスクエアとか、王道スポットをふらふら回った。
お互い相手に(というか他人に)無関心なわたしたちは、自分の行きたい場所を適当に主張し、適当に調整し、適当に意思決定した。ブロードウェイのミュージカルに至っては、お互い別々のタイミングと方法でチケットを取り、そして劇場側がランダムに当てたはずの指定席でなぜか真後ろに彼がいるという腐れ縁っぷりだった。(わかれてチケット取った意味ないじゃん。)
特にどうってことないゆるふわ旅だったけど、いまでも思いだすのは、博物館に行った日のこと。
わたしたち二人は互いに関心がない上に元来協調性がないので、広い博物館で一緒に歩くということをしなかった。同じフロアで、わたしが右回りなら、彼は左回り。途中で出くわせば、「あれすごいね」とか他愛もない感じで言い合うくらい。
それが、すごく楽だった。
このフロアの、彼がどこにいるのかはよくわからない。
一緒に寄り添って歩きはしない。
でも、決してはぐれもしない。
最終的には、ちゃんとお互い姿を見つける。
赤い鞄、彼です。
わたしは小さい頃から人に頼られることが多くて、自分は他人に甘えちゃいけないんだと思っていた。(家の中では甘えてたと思うけど。)
「しっかりしてるね」ってよく言われていたし、知らないうちに「しっかりしていなくちゃ」と思ってもいたと思う。
無責任とか、人任せとか、そういうことは自分はしてはいけないと固く信じていた。
でも、このときの旅行で、それってある意味とても子どもっぽかったんじゃないかと思った。
わたしは子どもだったから、人を頼ることができなかったんだ、たぶん。
本当のおとなは、きっともっと上手に人を頼って、甘えて、うまくやるんだと思う。
わたしはこのニューヨーク旅行のとき、プランニングも宿取りもなにもかも彼に頼りっぱなしだったけど、彼はそれを嫌がらなかったし、わたしも気負わなかった。
わたしにとって、おとなになることは、もっと子どもになって、人に甘えることだったんだな。
って、そんなことに気づいたのが、1年半前のこのときでした。
彼は自称社会不適合者なので、この後もう1年大学を休学して、いまはアジアで住み込みの仕事をしています。最近どうしてるか知らないけど、まあ、どうでもいいや。お互い、元気で生きててくれりゃあいっか、とたぶん思っている腐れ縁の二人なのでした。
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